障害者の働きたいという声は社会参加をしたい、である
障害者の働きたいという声は、社会参加をしたい、承認の欲求であり、何も、企業や福祉的就労現場で働きたいをそのまま指すわけではない。
そんな当たり前のことに、なぜ、日本の福祉テクノクラートは気づかないのか。
健常者にしてもそうではないか。
健常者が述べる、または、女性が述べる働きたいは、社会参加であり、社会参加を通じた承認の獲得であり、主婦が夜勤の食品工場で働き、旦那を殺してしまうような桐野夏生の小説のようなことではあるまい。
日本は社会と労働が同じものと認識されている。
だから、厚生労働省ということになる。
だが、社会とは、生まれてすぐの赤ちゃんや死後の人間まで含む広い概念である。母親の母体に生きている胎児も社会に含むのだ。
社会とは、労働だけで成立していない。
学生も社会に含まれる。
高校生も社会に含まれる、ということが、共通理解にあれば、水島臨海鉄道の高校生も乱暴な電車の乗り方をしないだろう。つまり、社会に含まれていないから、何をしてもよい、とからたが覚えているのだ。
あなたも私も社会的な動物である人間として、いかに社会に関わるか。それは、雇用労働だけではあるまい。