企業の労働者減らしがマルチタスクを労働者に求めたから発達障害とされているだけである
本来、2人、3人、4人で行う作業が企業の一方的な「合理化」により、労働者が減らされた結果、マルチタスクが必要とされることになり、以前は丁寧な〇〇さんが今や仕事についていけない〇〇さんへ変化させられる。そのことが、発達障害界隈でいわれるマルチタスクができないと何が困るか、の本質である。
家庭でもそうだ、という人がいるが、家庭でそのマルチタスクができないから困る、のであれば、その家庭が家族をなしていないのだ。
ある社会へ変化し、それに合わない人を発達障害とカテゴライズすることにはなんら社会が作る困りごとに対して解決にもなりえない。
社会の制度を変えるのではなく、自分を変える、ということが発達障害界隈で唱えられるが、なぜ、発達障害者が変えなくてはいけないのか。
原因は社会にあるのだから。
ゆえに、発達障害系のワークショップへ行き、自分を変えることになんら意味はない。なぜなら、社会が発達障害者向けに変わることはないからだ。
いちいち、社会や身の回りに合わせれば何かコトが済むかのような価値観は捨てたほうがよい
企業の従業員減らしによる結果、マルチタスクを過剰に求められ、シングルタスクなら仕事に丁寧、実直な〇〇さんが、マルチタスクではあわてものにされてしまう。それが、過剰に増える発達障害診断増大の原因である。
いくら自分を見つめようが、その人間性は治らないし、治す必要もない。
社会制度をいかに変えるか、それさえ考えればよい。
無駄な発達障害者向けのワークショップへ行き小手先の〇〇力とか無意味なテクニックを身につけようが、あわてものの〇〇さんは変わらない。変える必要もない。
家族力とかあほじゃないですかね。