「生きづらさ」というような「軽薄」かつ「安直」なキーワードで語られるような「障害」が「発達障害」ではない
「生きづらさ」というような「軽薄」かつ「安直」なキーワードで語られるような「障害」が「発達障害」ではない。さらに、「発達障害」は「コミュニケーション」が問題ではない。「発達障害者」と「コミュニュケーション」をして「問題」と感じる「社会」の硬直こそが問題である。
「発達障害」の中には「限局性学習症」という「障害」があるが、それはトム・クルーズを苦しめた「読字障害」、そして「書字障害」、方向音痴の「空間認知の障害」もある。そして、吃音も「発達障害」に含まれるが、「吃音」が「発達障害」のどのカテゴリーに含まれるか、私はわからない。「限局性学習症」と「吃音」を抱える人間にむかって「あなたは、コミュニュケーションに問題がある、コミュニュケーション能力がない」といってしまうほうが「変態」である。
あなたは、トム・クルーズに向かって「コミュニュケーション能力がない」といえるのか。
だが、幸運なことにトム・クルーズはアメリカに生まれたので、だとしても、確かに苦しんだろうが、これが仮に日本で生まれ、日本で生きれば、日本のような「ウラオモテ」が「コミュニュケーション」、「タテ社会で上手く渡ること」が「コミュニュケーション」と誤解しているゆがんだ社会・日本ではなく、実力や能力が相応に認められる社会であるアメリカだからこそ、トム・クルーズは俳優として成功できたのだ。
日本社会は日本国憲法が基本にある一見、自由と平等が保障されたかのようにみえる「国家」「社会」に見えるが、そうではない。それは恰も「民主制」にみせかけた「専制国家」である。そのような「専制国家」では、個人の「自由」は、その国家の基準にそぐわなければ、「障害者扱い」されるのだ。昨今の「発達障害」の増加はその「専制国家」が強いる抑圧システムの産物であり、そして、この「専制国家」で上手く渡ることだけが目的の「非社会的な自称・発達障害者」は「発達障害」と呼ばれたがっている。この関係は共依存である。
「発達障害」は「治らない」と「自称・発達障害者」は語る。であれば、「発達障害者」向けの「職業ガイド」に書かれてある「不注意の治し方」といったようなアドバイスは何なのか、医者に治せないものが「職業カウンセラー」とか「職業支援員」とか「就労コンサルタント」といった医師資格でないものが治せるのか。さらに「発達障害者向け」の「ワークショップ」など、噴飯ものである。その「ワークショップ」は「限局性学習症」のことは忘却されている。
日本社会は、個人で生きようとする人まで「発達障害」とラべリングしてなにかわかったかのような「嘘八百社会」である。