せやろがいおじさんには私は不愉快さしか感じない
せやろがいおじさんは平均的日本人には人気があるが、私にはところどころ見せる彼の間違えた意見に不愉快さしか感じない。せやろがいおじさんは一見、日本政治に対してノーを突きつけるタイプのように見えるが、なんら政治的な思想がないから、政治的思想も思考もない三宅洋平のようになるだけだろう。まったく三宅洋平は原理的な思考も政治的思想もなく表面的に反抗する、という平均的日本人そのものだから、結局、安倍昭恵とつるんでしまう。せやろがいもそうなるでしょう。体制に包摂されるだけでしょう。
今回は辺野古移設に対して彼はあの褌姿でバラエティに富む意見を言いっぱなしで進めるのだが、その中で彼は右と左は対立ではなく対話と述べているが、それは間違いである。民主主義国家では対立はある、だが、対立していてもお互いの意見を尊重しながら対話を行うことができる、という態度が民主主義国家で求められる基本姿勢である。
日本の政治的議論はおろか、議論が成立しないのは、争点をめぐり議論をしていくのではなく、争点外しや人格攻撃が行われることが多く、特に政治的議論はその議論とはいえない議論が行われ、不愉快感しか覚えない。なぜ、日本では政治を語るな、と頻繁に言われるのは、政治を語るスタイルが民主主義国家で求められる議論の型から大幅にずれてしまい、その子供のような幼稚な口喧嘩のような形に誰もが疲れてしまうからだ。
日本人は、なぜか、対立があるのはおかしい、と考えたがり、過程を飛ばし、仲良くしよう、となんら意味がないスローガンへ飛びつくのが好きなようだ。
対立は存在する。
対立を越えることも調和することもできない。
できるのは、対立を尊重したお互いの意見のすり合わせ、もしくは、弁証法として統合されるだけである。
弁証法は仲良くなったわけではない。
対立は意見として対立しているだけのことだから人格として対立はしていないから仲良くしようというアドバイスは的外れなのだ。
対立は存在する。
対立から目を背け、妄想の調和幻想に浸るのは、退行である。