注意欠陥多動性症候群者が衝動的かつ不注意に書いてしまうブログ

49歳、注意欠陥多動性症候群及び自閉症スペクトラムと診断され、今までの人生で上手く行っていないことに納得できました

僕の発達障害は、ADHDで、ジョブス的罵倒型です。 僕は正社員だった頃は、アルバイトから店長から客から気にくわない奴は罵倒しまくっていました。 パワハラ正社員でした。 告白します。 その後、うつを発生し、休職、離婚、失業、借金、自己破産、職を転々。 そして、約5年後に契約社員。 疲れてくると、罵倒の癖は治らず、4年後は、懲戒解雇。 その前に、郵便局の対応が悪く、カウンターにあるプレートを下に叩きつけるつもりが、局員にあたり、暴行罪、罰金10万。労役が嫌なので、派遣へ無理やり入り、再就職手当で、払いました。 この10万が痛く、いまは、罵倒はありません。 私は衝動型のADHDです。

「報酬を求めない無私、日本人すごい」という安直な物語の再生産

東京オリンピックのボランティアは「報酬を求めない無私、日本人すごい」という安直な物語の再生産でしかない。
もはや、日本はこんな程度の薄ら寒い物語装置でしか「国家統合」ができなくなっている。
安倍政権による沖縄への強硬な弾圧がもはや「国家統合」できなくなっていること示している。
そのような時代に、日本人によくみられる行動としてある場に帰属することに「アイデンティティ」を見出し、安心感を得るのは個人としては自殺行為である。しかもそのある場には「想像上で一体化」しかできない。ある場、それが会社であろうが学校であろうが国家であろうが、それは個人をなんら保障しえない組織なのだ。日本人はそれら場に対し、契約ではなく、一体化と上からの恩情という「包摂」をしてフェイクな共同体に自分がいることで安心してきた。
もはや、先も書いたが「国家統合」はできなくなり、会社にしても今までフェイク共同体の「安定に見えた経済成長時代」では声があがるはずがない女性たちのセクハラ訴訟が続出しそれが現代のシンボリスティックであるようにその「包摂」は失われてきた。昨今、学校教育で見られる見られる人権無視の反動教育はその「包摂」を取り戻そうとする無駄な試みでしかないし、このまま進行すれば「いじめ」が深刻化するだけであろう。
日本は「包摂」が失われると主体的に個人が集団で機能することがまったくなくなる。そのいい例が日本サッカーチームだ、それは「集団」で目標に向かうチームのあり方ではない。
そのような時代、個人だけが生きるための「倫理」である。