「報酬を求めない無私、日本人すごい」という安直な物語の再生産
東京オリンピックのボランティアは「報酬を求めない無私、日本人すごい」という安直な物語の再生産でしかない。
もはや、日本はこんな程度の薄ら寒い物語装置でしか「国家統合」ができなくなっている。
安倍政権による沖縄への強硬な弾圧がもはや「国家統合」できなくなっていること示している。
そのような時代に、日本人によくみられる行動としてある場に帰属することに「アイデンティティ」を見出し、安心感を得るのは個人としては自殺行為である。しかもそのある場には「想像上で一体化」しかできない。ある場、それが会社であろうが学校であろうが国家であろうが、それは個人をなんら保障しえない組織なのだ。日本人はそれら場に対し、契約ではなく、一体化と上からの恩情という「包摂」をしてフェイクな共同体に自分がいることで安心してきた。
もはや、先も書いたが「国家統合」はできなくなり、会社にしても今までフェイク共同体の「安定に見えた経済成長時代」では声があがるはずがない女性たちのセクハラ訴訟が続出しそれが現代のシンボリスティックであるようにその「包摂」は失われてきた。昨今、学校教育で見られる見られる人権無視の反動教育はその「包摂」を取り戻そうとする無駄な試みでしかないし、このまま進行すれば「いじめ」が深刻化するだけであろう。
日本は「包摂」が失われると主体的に個人が集団で機能することがまったくなくなる。そのいい例が日本サッカーチームだ、それは「集団」で目標に向かうチームのあり方ではない。
そのような時代、個人だけが生きるための「倫理」である。