成長とは、克服だけなのか
なぜ、意欲やモチベーションと克服だけが、日本社会では成長のための選択として、それだけしか選ばれないのか、私には謎である。
その3原理が、障害を克服して、という健常者からの許されるべき障害者像として、社会に流通する。
だが、障害は克服するものではないし、克服はできない。
それは、その人間の一部である。
障害とともに生きるにはどうしたらよいかとは、克服では済まされない大きな課題である。
障害とともに生きながらも、小さな変化の積み重ねがその障害者の成長につながればよいではないか。
克服による成長から変化による成長
という価値観が日本社会に根づいてほしいものだ。
シンプルな話ではないか。
障害者にとっての幸福とは、障害者それぞれの人生により多様であり、その幸福を追求することである。
だが、単一な価値観が一人歩きしている日本社会では、障害者があるのは「かわいそう」という偏見に基づいたその価値観が単一に、疑いもなく、共有させられ、障害を克服した障害者だけが、「かわいそう」という偏見から外される。
だが、そうではない。
優先すべきは、各人の幸福を追求することの社会的保障であり、それは、経済成長の効率性から排除されてよいわけがない。
人の幸せが経済成長原理から規定される社会からの脱却こそが、克服による成長から変化による成長への社会の価値観へつながる、と私は考えます。