注意欠陥多動性症候群者が衝動的かつ不注意に書いてしまうブログ

49歳、注意欠陥多動性症候群及び自閉症スペクトラムと診断され、今までの人生で上手く行っていないことに納得できました

僕の発達障害は、ADHDで、ジョブス的罵倒型です。 僕は正社員だった頃は、アルバイトから店長から客から気にくわない奴は罵倒しまくっていました。 パワハラ正社員でした。 告白します。 その後、うつを発生し、休職、離婚、失業、借金、自己破産、職を転々。 そして、約5年後に契約社員。 疲れてくると、罵倒の癖は治らず、4年後は、懲戒解雇。 その前に、郵便局の対応が悪く、カウンターにあるプレートを下に叩きつけるつもりが、局員にあたり、暴行罪、罰金10万。労役が嫌なので、派遣へ無理やり入り、再就職手当で、払いました。 この10万が痛く、いまは、罵倒はありません。 私は衝動型のADHDです。

成長とは、克服だけなのか

なぜ、意欲やモチベーションと克服だけが、日本社会では成長のための選択として、それだけしか選ばれないのか、私には謎である。
その3原理が、障害を克服して、という健常者からの許されるべき障害者像として、社会に流通する。
だが、障害は克服するものではないし、克服はできない。
それは、その人間の一部である。
障害とともに生きるにはどうしたらよいかとは、克服では済まされない大きな課題である。
障害とともに生きながらも、小さな変化の積み重ねがその障害者の成長につながればよいではないか。

克服による成長から変化による成長

という価値観が日本社会に根づいてほしいものだ。

シンプルな話ではないか。
障害者にとっての幸福とは、障害者それぞれの人生により多様であり、その幸福を追求することである。
だが、単一な価値観が一人歩きしている日本社会では、障害者があるのは「かわいそう」という偏見に基づいたその価値観が単一に、疑いもなく、共有させられ、障害を克服した障害者だけが、「かわいそう」という偏見から外される。
だが、そうではない。
優先すべきは、各人の幸福を追求することの社会的保障であり、それは、経済成長の効率性から排除されてよいわけがない。

人の幸せが経済成長原理から規定される社会からの脱却こそが、克服による成長から変化による成長への社会の価値観へつながる、と私は考えます。