労働とは意欲であるのか
日本での労働に関する議論の貧困さは与野党含め、さらに労組もそうであり、巷の反体制活動家もそうだが、それが、意欲に焦点を置いて語るからである。
意欲が焦点化されて議論が行われると、体制側は軒並み、働くことが、努力や克服という労働ポルノとして、それが、愛国だとか陳腐な道徳と結びつき、喧伝されてしまう。
そして、反体制側は、賃金上昇の根拠を、労働者である私の頑張りを認めよ、と賃金上昇させるロジックが日本企業の能力主義的な評価軸に吸い込まれてしまうのだ。
労働とは意欲であるのか?
労働を意欲だけで語る幼稚さから離れなければいけない。
労働を意欲だけで語る言説が蔓延る間は、ブラック企業の栄華は廃れない。
だが、労働とは、資本主義では、労働力である、という簡単なことにわれわれが気付けば、どのような生産関係を作り出していけるか、ヒントはある。
労働力とは何か?
それは、労働とどう違うのか。
その問いこそが、われわれを資本主義からくる思い込みを転倒させるのだ。