「能面」のような無表情の日本人の「心」をわかれといわれてもねえ、無理でしょ
フツー、人の心なんてわかるわけないですよね、特に無表情な日本人だと。誰もが能面のようなむっつりした顔だから、そんな能面を相手にして心をわかってほしい、とかいかに甘えているのか。不愉快ですね。
その日本人も子供の時は感情豊かに笑ったり泣いたりしていた、だが、だんだんと感情を抑えるようになり「能面」になる。お互い「能面」だと、相手の心を読んでいるつもりの、腹の探り合い、という不健康な対人対処を行いだす。それは「不健康」ですから、今を生きる若者にはそうならないでほしい。
仮に日本人がストレートに泣いて怒ってというタイプで泣いてるのに、怒っているのに、おかしな対処をしたら「心がわからない」ということもあるが、日本人は「能面」だからね。その時点でおかしいんだよ。「能面」をポーカー・フェイスというのはやめたほうがいいな。
外国人は明治初期のある日本人が子供が死に、そのことに涙も流さないことに驚きを隠していない。それは武士たるもの感情を見せないというような日本人の所作だが、そんな涙も流さない奴の心をわかれといわれてもねえ、という話だ。
日本社会で日本人の心がわかるほうがおかしい。
いまだと集団同調でへらへら笑って、へらへらハロウインで軽トラを倒すような民族である、そんな民族の「心」など私は知る気もない。
読書の記録143 なぜ今、仏教なのか ロバート・ライト 著 早川書房 2018/11/02
著者が相当、現代的な人がわかったけど、僕の理解力が悪いせいか、 なぜ今、仏教なのか、がわからなかった。もっともマインドフルネスは効果があることは薄々わかる。
発達障害者当時者の私は障害を言い訳にしない
私は50歳直前でADHDと診断され、それは自分の奇行(不注意や衝動性など)について自己免責的気分を感じただけで、だからといって不注意は治すようにこれまでしてきたし、今後もそうする。障害を言い訳にしない。幸い、その歳でADHDと発見されて私はよかった。これが早期診断であれば、「障害者」として「福祉に殺されるところだった」。だが、私はADHDで周囲に迷惑をかけながら、また、ドン引きにあいながら、いじめられたり、様々な葛藤や困難はあったかもしれない。だが、それはよかったのだ。「福祉に殺される」よりよいのだ。
私は一時期、不注意が気になって、強迫性障害くらいのような確認魔になったが、それはそれでよい、なぜなら、鍵が開けっ放しでは困るし、ガスの元栓が閉め忘れでは困るからだ。
私はかつては吃音で、今でもその傾向はあるが、人並みに話せるようになった。
いかにその状態を改善していくか、だ。
障害だから治るわけがない、で終わったら人生の可能性はなくなる。だから今度は自動車運転にまたチャレンジを考えている。
私は障害を言い訳にしない。