仕事そのものの苦しみと労働環境劣化から生じる苦しみ
仕事そのものに対する苦しみと労働環境劣化から生じる苦しみを分けて考えなければならない。
パンを作る、そばを作る、ガードマンをやる…様々な仕事はあり、その仕事をする過程で苦しみはある。支援員にも障害者と関わる上で思いがけないことに遭遇し、仕事の苦しみはある。
一方に、そのこととは別に、労働環境が劣化しているだけの苦しみはある。
その両者を分けなければならない。
前者は、生みの苦しみというような苦しみであり、避けて通れず、また、逃げてはいけない。
だが、後者は、社会人として法的措置、運動として変革しなければならない。
そう簡単に、生きづらい発達障害と表現できない微細な要素が就労にはある。
その微細な要素に私たちは感性を研ぎ澄まさなければいけない。
生きづらい、という造語を使う奴はバカである
生きづらい、という日本語をいい加減使うのはやめてほしい。
生きやすいの反対語は生きにくい、だろ。
生きづらい、という日本語を使う人は、頭が「辛い」ンじゃないの?
生き、までは客観的な状態を表しているのに、づらい、は主観だろうに。それは文法としておかしいし、文章能力がまったくないバカではないか。
こういう部分で、人間はバカにされるんですよ。
発達障害系は「生きづらい」をよく使う人がいますが、客観+主観という単語ゆえ、説得性が無い。
無造作に流行り言葉を使う人は、軸が無い。
所詮、同調体質の腰が弱い奴です。
私は生きていくのにつらい、と書きなさい。なにが「生きづらい」だ。
あほちゃうか。
資本論を読むとざっくり経営の方法がわかる
資本論を読むとざっくり経営の方法がわかる→まず、金貸しからカネを得る(株式投資でもよいかもしれない)→生産手段を得る→労働者にその生産手段で働かせる。労働者と資本家は不等価交換である。その不等価交換こそ剰余価値の源泉である→商品を販売。回転率が良ければ剰余価値は増える→貨幣の遊休が起きる→投資→カネがカネを生む。流通段階では、生産時点の剰余価値の内部でコストダウン。なぜ、資本家は、労働者と生産手段の結合で生まれた剰余価値は自分の力と強く思いこめるのは、投資で金利がつき増えてしまうからだ。これは会社へ投資する株式投資家もそうだ。
投資の源泉は資本家のカネではないのだ。
金貸しから借りたカネを使って人を安く働かせ、遊休貨幣が起きて投資へ回すとき、自分のカネ=力と思いこんでしまう。
これは現在の日本では政治家レベルで起きてしまった。
アベノミクスである。それは税金。税金はもともとそれは剰余価値の一部なのだ。
そして流通段階や金融段階では他資本と競争しているから他企業に競争で勝てた自分の力と思いこめてしまう。
だが、源泉は、あくまで剰余価値=搾取なのだ。
ということは起業だの言いたがっている人間は、自分は労働者からいかに搾取するかというアイデアがなければならない。資本主義の資本家とは、他人から搾取できることができることに良心を持ち、悩むような人間では務まらない。
起業を考える人は自分が、良心を捨てなければ資本家をできないことが分かっていない。