自覚して日本人は天皇へ「陛下」をつけて呼ばないことだ、それが日本人の自己成長を促す
天皇が人間宣言しようが、人間の頂点にあれば事態は変わらない。名称変更や言葉の言い換えで有耶無耶にする日本的風景の一つが天皇の「人間宣言」である。
実際、その証拠にいまだに日本人は無邪気に「天皇陛下」と呼ぶではないか。
そのことが有耶無耶だ。
自覚して日本人は天皇へ「陛下」をつけて呼ばないことだ。子供は、親が「天皇陛下」と呼ぶから「天皇陛下」とその言葉の意味がわからず反復してしまう。だが、その子供も成長したら「陛下」の意味を理解できるので「陛下」と呼ばないことで、主体克服を可能にする。自己成長できるのだ。
あなたが仮に戦争反対といおうが、いつまでも「天皇陛下」と無邪気に呼ぶあいだはあなたの戦争反対は「奴隷の戦争反対」でしかない。近代的自我を所有したいのであれば、「陛下」とつけて呼ぶことを捨ててこそ初めて近代的自我、そして「平等」の実質的意味を獲得できるのだ。
日本人がいつまでも天皇陛下と無邪気に呼ぶあいだは、日本人が近代的自我からいつまでも遠い未開人のままであろう。
自己確立とは親離れのことである。
それは子にとって恐怖であり冒険であり新たな人生の獲得である。
同じことが日本人に言えるのだ。
かつて、日本人は天皇の赤子だったのだ。戦後になってその制度は廃止されたが、だが、日本人の奥底に眠ったその赤子意識が残ってしまい、今でも天皇に対し「天皇陛下」と敬称をつけ、親=王を意識内で確立させてしまう。その意識内の関係を捨て払うには「親離れ」が必要なのだ。
日本人は自己成長のために「天皇」とその役割名だけで呼べ。
天皇もまた母性的権力であり、また日本人もその母性的権力へ依存することで成立する共依存の支配関係である。 共依存とは「あなたのことを心配して意地悪するのよ」という言葉がその典型例である。
「天皇陛下」と呼ぶあいだはあなたは母性からの無償の愛を期待し続ける子供でしかない。だが、天皇制とは「帝国主義」でしかないのだ。
天皇を頂点とした幼稚な大日本帝国は空威張りでアジア諸国を支配していた。そのメッキが今、はがれようとする現在、大日本帝国の末裔である安倍政権は焦りの形相で韓国を非難する。
そのシンボルが働き方改革の旗振り役の厚労省課長韓国での酒を飲み酔った上での暴行だ。
日本は劣化した「帝国主義国家」としてその役割を終えるのだろう。