「自主憲法」を主張する者は「甘え」の世界に居住している
日本らしい憲法なんてない。
伊藤博文にしたところで西洋から憲法を移植したにすぎない。伊藤博文は英国のスペンサーから、日本にはキリストでなくても天皇という便利な存在がいるじゃないか、とアドバイスされ、帰国後、大日本帝国憲法を森有礼とともに作成した。
そして第二次世界大戦後の日本は、民主主義を導入された国として大日本帝国と明確に分割されたのだ。もっとも国体主義者の残滓は生きながらえた。そして、戦前から活動していたような学者や評論家などはその事態を冷静にもしくはあきらめのように受け止めていたのである。大日本帝国は滅び民主国家日本が西洋から導入された、という認識である。その民主国家・日本の基礎は日本国憲法である。その憲法もまた作成原案は日本人の高野岩三郎らであるが、彼らは近代西洋主義者でもある。日本らしい憲法などない。
憲法を基礎づける人権は、あくまで西洋人が生みだした概念である。そのことに多くの日本人は「自分がない」という傷つきへいたるが、そのような「傷つき」こそ「甘え」である。
私たち日本人は「甘え」の世界に浸り、その世界で生きてきた。ゆえに日本国憲法の絶対的他者性に怯え、「自主憲法」という「甘え」を訴える。それは成長期青少年の「自己」でしかない。
そのような「甘え」を脱却し、私たち日本人は、個人で生きるという模索をしなけれなばらない。」