コミュニケーションなど気にする必要もなければ直す必要もない
人間、生きている以上、嫌でもコミュニケートせざるを得ない。
表現が拙いか華麗か狡いか暗いか陽気かなどの主観的な違いでしかない。
コミュニケーションなるものが過大に日本では焦点が当たってしまうのは、均一化、同質の人間関係に安住したいアナクロな人間の声がでかいからである。
コミュニケーションなど、気にする必要もなければ直す必要もない。
すべきはコミュニケーションという儀式のような人間関係を向上させるのではなく、一人一人が他人と会話するとき、作業するとき、様々なシーンが考えられるが、人間尊重の価値観で接すれば済む話であり、儀式的な形に押し込めるのは人間抑圧でしかない。
他人を傷つけるようなことをすれば、謝ればよいではないか。
それだけの話だ。
コミュニケーション教へ陥ってはいけない。
そんなくだらんことで悩むくらいならまだ昔懐かしの礼儀作法を身につけたほうがはるかになんぼかましである。