ときどき社会系政治記事№13 アキヒトが人格が良いからといってアキヒトが国民の味方になるわけがない 2017/12/23
こんにちは、50にしてADHDの診断を下されたひでひでです。 ===================================
人格を問うことの無駄なことを善意だけが取り柄の自称リベラルはわかろうとしない。
アキヒトの人格が良く、安倍晋三の人格が悪いから、アキヒトを賛美し、安倍晋三を非難するのはもはや政治批判ではない。アキヒトも安倍晋三も世襲というカースト支配の人形に過ぎず、その一方が人格が良いからといって肩入れするのは、そのものは、社会を勧善懲悪で悪人を制裁したいだけの一種の支配者願望のトーテムに過ぎない。
つまり、アキヒトを賛美する自称リベラルとは、なんら社会の構造を見ようとしないエセである。
人格を問うことは、内面形成という近代の形而上学の逆立ちした観念であり、それは、自閉的な言説を再生産する。
人格が良いからといってアキヒトを賛美する偽善の自称リベラルは、ガチでみたアンダークラスの人格の悪さ、人格破綻に目を覆い、そして、そのあとは決まり切った弱者攻撃が、偽善の自称リベラルから行われる。
弱者攻撃の深層とは、そんなものに過ぎない。
弱者を理解する、弱者とともにある、とは、鎌倉孝夫氏が佐藤優らと食事したときに私のほうがカネはあるからと全員へ奢るその利他精神にしかなく、それは人格を超えた資本主義を乗り越える意志がそうさせるのだ。
人格の良さだけでは、社会などかわるわけがない。