文議長の天皇への謝罪要求こそが友情の証である
天皇は政治家にとって利益不利益の目安で政治的権能はないと定義されている、ある場面を切り取って政治的だ、と政治家は政治的に発言する、そして、その意味では天皇もローラも同じような扱いをされているのである。天皇とローラの違いは前者の天皇は後者のローラより下にあり、後者には日本国憲法に対しては権利的主体として存在し、前者は遵守義務しか課せられていない世襲公務員である。
そして、天皇には政治的権能がないと吠えるご都合主義の政治家の言に従えば、いくら天皇を他国の政治家が批判しようが、なんら法的に毀損はないのだ。
仮に天皇が首脳であれば、文議長の発言は慎重さを欠いた言葉である。
だが、天皇は政治的権能がないということは、批判する側も政治的であるはずがない。せいぜい、言えるのは残存する封建的遺物としての天皇制へ政治改革的に批判する権利が国民にあり、それは天皇個人へ収斂されるシステムではなく、天皇制を都合よく利用する安倍政権のような極右政治家を天皇制と絡めて批判することが最優先にされなければならない。天皇へ謝罪要求することは全く無礼でもなければ不当でもない。むしろ、隣国の友情の証とすら言える。
友情とは天皇へ直言できる文議長のようなものにこそふさわしい言葉である。
では、アキヒトはその友情にたいし、しなければいけないのは、元慰安婦への謝罪である。文議長は手に取り謝罪をすれば、終わるといっているのだから、終わるのだ。その文議長の無骨な友情の誘いにアキヒトは応じることで、皇室は開かれていくのだ。
我々、日本国民は文議長の友情にアキヒトが応えられるようにアキヒトの元慰安婦への謝罪を促さなければならない。
文議長の天皇謝罪要求に天皇は渡りに船だと乗ってしまったほうがともに利益はあるのです。文議長はそれをわかって、素晴らしい要求をしているのだ。それは千載一遇のチャンスだ。これがチャンスに見えないやつはコミュニケーション力皆無ですな。
慰安婦問題はアウシュビッツや広島・長崎のような人類の悲劇として世界に認知されているから、慰安婦像ですね。
日本はその人類の悲劇の加害当事国として罪に向き合い、謝罪をすることで、日本にも人間がいるのか、と海外の人はわかってくれます。それに相応しいのは天皇です。