字句を変えようが、現実は何も変わらない。改憲を壊憲といい変えようが、だから何?でしかない
なぜ、日本人は字句を変える、といった幼稚な反発しかしないのだろうか。
たとえば、小川榮太郎の旧字体に対する偏執は字句を変えるといったことのバリエーションに過ぎない。その字句を変えるという表記上の抵抗は古典的左翼もよく使用する。改憲を壊憲というようなその鈍臭さこそが、字句を変えれば何かが変わったかのようなまさしくやってる感に過ぎないのである。
だから、生きづらいというスラングへ変えるのは、改憲を壊憲に変えて、何か言った気分に浸るやってる感に過ぎない。
ゆえに、正しく日本語を使う私たちは生きにくい、と正しい日本語を使用すべきであり、生きづらいを平気で使用する専門家をバカにしよう。
雨宮処凛が最初に言いだしたのが生きづらいというスラングである。まさに、字句を変えて変えた気分のやってる感に浸る左翼文化人らしいバカらしさである。