他人の気持ちをわかれ、とは対話拒否でしかない
ある意見をあるものが発し、それに対し、他人の気持ちをわからない奴だお前は、とそのあるものへ、愚痴だかなんだか意味不明なことを述べることは、対話を拒否している。
言葉には言葉で誠実に対応しなくてはいけない。
たとえ、その言葉に下品な言葉が含まれようが、他人の気持ちをわかれ、というような対話拒否よりは、ましである。
だが、多くの、特に忖度文化に慣れきった日本人は、下品な言葉を使いながらも言葉を信じ、対話に臨む人間より、他人の気持ちをわかれ、という対話拒否を「良いもの」だと確信している。その確信は、特攻隊へつながる精神論である。
なんでもよい、稚拙であろうが、下品であろうが、言葉を発し、対話をせよ。
下品な言葉を拒否することは、教育を充分受けられなかった人たちを排除することになるからだ。
だから、私はあえて、下品な言葉を使う。
釈尊は、私の言葉を残すのはよいが、サンスクリットを使うな、庶民が使う言葉で書け、と弟子に命じた。
それが、階級だ。
苦しむ人民が権力者をバカと弾劾する。
私はその人民を是正しない。
ともに、バカと罵る。
それが、階級的な連帯だ。