アキヒトが元慰安婦へ謝罪をすることで日本国民の人道的良心が象徴として実現する
日本国内では文議長の天皇への謝罪要求を無礼と内向きに騒いでいますが、他国の人間が日本国の中途半端な君主である天皇へ畏れ入る義理も必要もない。というかそもそも日本国民にも天皇を畏れ入る義務はない。文議長へ非難するほうが民主主義をわかっていないのだ。
さらには日本共産党までもが天皇には政治的権能はないから、謝罪をする必要がない、と法形式的な悪い見本を示している。天皇には自らの人道的良心を主張する自由はある。ゆえにアキヒトが謝罪するのはその自由のゆえだ。アキヒトが謝罪できないとすれば、そのアキヒトの自由を制限する権限はあるのか。
いうまでもなく、アキヒトの人間性や良心まで憲法は奪ったのではない。
アキヒトが天皇として日本国民の統合の象徴であれば、それは良心が法的に要請されなければならない。我々、日本国民の良心の象徴がアキヒトが元慰安婦へ謝罪することでそれは実現するのだ。
私たち日本国民に人道的良心を世界に示したいのであれば、アキヒトによる元慰安婦への謝罪を我々日本国民は促さなければならない。
日本国民にすら天皇を批判する法的権利も存在し、天皇へ敬わなければいけない法的義務が存在しないのに、ましてや他国の韓国の文議長には一切天皇へなんら遠慮する必要もなく批判や要求、評価する言論の自由は普遍的に存在する。
文議長を非難する安倍政権や日本国民が民主主義を理解せず、日本主義に染まってしまっているから文議長の発言が奇妙に見えるのだ。