発達障害が治ると幸せは掴めるのか?
僕は発達障害が治ったからどうなの?という考えです。
現在の社会環境では、たとえ健常者でも「生きづらい」世の中です。格差や奨学金、消費税など。健常者になればバリバリ働けるとも言えない。非正規かもしれない。つまり、治ったところで、光明があるわけではない。
ただ、健常者だと、劣悪な社会環境に耐えられるタフさがあるのかもしれない、という期待があるだけでそうではないと私は考える。
私やあなたが現在苦しいのはその「発達障害」だけが原因なのであるとは言えないからだ。
あなたが貧困だとすれば、それはあなたが置かれた環境があなたをそうさせたとしか言えないのだ。もし、あなたがシングルマザーの子どもで自分の母が再婚し、再婚相手が暴力亭主でいつも虐待を受け、児童保護のために養護施設に入れられ高校をいじめで中退し、仕事は非正規で食いつなぎ…という環境だとしたら、発達障害だけが原因で貧困ではない。その環境でも健常者なら上手く人生を切り抜けられる、とは言えないからだ。
自分の苦しみは一体なんなのか。どこから来るのか。
一つだけに原因を見つけ、納得していてはいけない。
苦しみの真の原因は意外なところにあるものなのだ。
正規と非正規の名称の二種類がよく使われるのに、そのどこが「多様な働き方」と言えるのか
多様な働き方といいながら、よく使われる名称が正規と非正規という二種類しかない。そのどこが、多様なんだろう?
多様とは、私は週40時間1日8時間36協定されている事業所で勤務し、転勤や異動が会社から期待されており、諸手当が複数ついている、というようなことを各自言えないと多様ではない。
障害者雇用では、私は福祉的就労事業所のA型事業所で1日4.5時間勤務し雇用保険と労災は適用されているが時間数が足りないため、社保には適用されない働き方、という表現を各自言えて、多様と言える。
正規と非正規だけでは、二種類しかない。
ちなみに、「多様な働き方」には家事は含まれているのだろうか。
そして、経営専任担当者のような経営側サイドも「多様な働き方」に含まれているのか?
正規、非正規、多様な働き方という言葉は主観的判断が付帯している言葉だから、その言葉を使うときは、ある意図を含んでいると見た方が良い。
原因と責任の違い
社会構造に原因があるということはそのまま社会に責任を被せることではない。わかりやすくいえば、コメの買い占めがある、コメが高値になる、コメが買えなくなる、この場合、買い占めた人間や店に責任があるが、その買い占めを作ってしまうのはこの社会構造である。原因と責任の違いです。社会に原因があるのではないか、自分が困ったことのその原因は?と考えることは社会のせいにしているのではない。
シンプルにいえば、自分ばかりではなく、周りを見よ、という当たり前の話だ。
敬語は「ですます」さえ使えればよい。尊敬語、謙譲語の使い分けを覚えることなど時間の無駄だ。
知的障害者が敬語で悩んでいたから、すべて子供に対してさえも、自分より年下でも、親でも、誰でも構わず、ですますで貫き通せ、と私は言っておいた。就労移行支援施設はこういった手抜きを教えないから、利用者は困る。ましてや、就労移行支援施設は利用者に「敬語の使い方」というのを作らせたりしていた。全く意味がない。企業の管理職が、「君、そこ、謙譲語だろ」という指摘することは全くありえない。ゆえに、ですますだけ覚えればよい。
敬語なんか覚えるより手っ取り早いのは腰を低くすることだ。当たり前の話だが。腰を低くするというのは誰に対しても公平に丁寧に誠実に対応することだ。そのときも「ですます」で貫き通す。その印象がつけば、この人は人によって態度を変えない人物とみられて好印象だ。やけに敬語を使うと逆に「上下で態度を変える」嫌な奴とみられかねない。
就労移行支援施設では労働法すら教えないお粗末さ
労働者が民主的な対応として労組を通じ、交渉しても会社が「身分封建制の領主」のような使用者だから全く交渉が進まないどころか、労組を不逞の輩扱いする。日本はまだ封建的な江戸時代なのだ。
経営者が労組を理解しようとしないし、妙な日本の商人の知恵のような因習や迷信に従った「道徳的経営」をしていることが日本企業の遅滞と不能を作りあげている。
それは就労移行支援施設も全く同じである。彼らもその因習や迷信にすぎない「会社の作法」を障害者へ教えることで助成金をせしめる自称福祉施設でしかない。
就労なのに就労移行支援施設では労働法、労組といった言葉が出てこない。一方的に企業が「期待する人材」とやらに障害者を鋳型ではめこみ、詰め込む無責任な施設が就労移行支援施設である。
私は就労移行支援施設をSST虐待施設と呼んでいる。