チョー短気なADHD50代のブログ

50歳にしてADHDとアスペルガー傾向があると診断されて、ようやく今までの人生のでたらめさが見えてきました。

僕の発達障害は、ADHDで、ジョブス的罵倒型です。 僕は正社員だった頃は、アルバイトから店長から客から気にくわない奴は罵倒しまくっていました。 パワハラ正社員でした。 告白します。 その後、うつを発生し、休職、離婚、失業、借金、自己破産、職を転々。 そして、約5年後に契約社員。 疲れてくると、罵倒の癖は治らず、4年後は、懲戒解雇。 その前に、郵便局の対応が悪く、カウンターにあるプレートを下に叩きつけるつもりが、局員にあたり、暴行罪、罰金10万。労役が嫌なので、派遣へ無理やり入り、再就職手当で、払いました。 この10万が痛く、いまは、罵倒はありません。 私は衝動型のADHDです。

新潮45の「杉田水脈と小川榮太郎」と新潮社のほかの出版物は一切なんら関係ないから、新潮社不買運動を呼びかけること自体、でたらめ行為である

常識的に考えれば、新潮45は社会的に現在、非難を浴びているから緊急社内会議をして、今後の同誌の方向性、廃刊も含めて、決定する、というものが組織なのではないだろうか。
ツイッターで創業者の言葉をツイートしたことが、良心と評価されているが、それは全く逆でリアルに社内で改革ができないからツイッターをするしかなかった。。意地悪く見れば、新潮社には良心はあります、という予め計画化されたセルフ・ブランディングにも見える。
新潮社文芸部ツイッターに刺激され、ほかの「良心的」といわれる版元がツイッターで呼応していた。呼応するのは構わないが、事態の中身、事実の確認といっだ作業をすっ飛ばし、「連帯もどき」をバーチャルリアルのツイッターで示すことになんらかの有意義があるのだろうか。編集業界人は社外の付き合いが広いと聞くが、そうなのであれば、隠密に行動し、社外と連携し、杉田水脈小川榮太郎、そして広くヘイト出版を根絶するにはどのような取り組みをしていくかが業界問題として取り組まなければいけないのに、そういう動きになっていない。結局、新潮社文芸部のセルフ・ブランディング見られてもおかしくない。
そして、以前、騒がれた大月書店の編集者を中心としたヘイトを考える会のように、ネットでそんな会があるよ、と知らせるだけの無意味なパフォーマンスをしているにすぎない。それは解決ありきの会ではなく、立場表明をしたにすぎないのではないか。
新潮45問題は、「良心的?」書店も刺激し、「抗議」として、「新潮社の本、全部撤去した」ということが朝日新聞でまるで小英雄のように報じられたのだが、なぜ、撤去が「抗議」になるのか。問題は、杉田水脈小川榮太郎の言論と言論を許す編集部、社内体制にあるのだが、まず、優先的に批判しなければいけないのは杉田水脈小川榮太郎の「言論」であり、それに対しては「言論」で「容赦なく批判」するのが、先決であり、もし、書店がその抗議をしたいのであれば、独自のフリーペーパーなどを作り、「杉田水脈小川榮太郎批判」というようなことを「書店人」として「文章」にすべきであり、そのような行為を抜きにして、一時の感情なのか、経済制裁を新潮社に加えたいのか、不明だが、「とにかく撤去」(見るからに汚わらしい新潮社の本というだけでのヒステリーにしか私の目には写らない)という粗雑な「商行為」で「抗議」とはいえない。撤去で抗議が表明できるのであれば、今まで、陳列していた意味は何なのか、私には謎である。結局、仕入れの目が甘かった、と言っているにすぎない。
そして、なぜ、新潮社前デモが必要なのか、これも理由が不明だ。重要な点は「杉田水脈小川榮太郎」の言論を掲載していく、新潮社編集部の方針であるから、それは「デモ」で解決できるのだろうか。というよりも、やはり、重要なことは「言論には言論」を対置することが重要であり、読者は、一足飛びに「デモ」という行動へ行くのではなく、やはりメディアを作り、または、公民館などで討論、批判をしていく作業が優先されなければならない。ましてや、ツイッターで、しかも、ジャーナリストの岩上安身が新潮社不買を呼びかけるなど自殺行為ではないか。岩上は、自分は新潮社からお呼びが無い、インターネットが中心だとそう考え、新潮社不買を呼びかけているとしたら、それこそ「言論の自殺」である。常識的に考えれば、新潮45の「杉田水脈小川榮太郎」と新潮社のほかの出版物は一切なんら関係ないから、新潮社不買運動を呼びかけること自体、でたらめ行為である。
新潮45もでたらめだが、反対している側もでたらめである。
ヘイトに加担しない、という立場表明をしたいだけの新潮社への「抗議運動」でしかなく、それは、それに賛同しないと、「差別者」と見られるのが「世間体」が悪いから、という無思考な同調行動でしかない。
ヘイトや差別に反対するという立場表明など誰でもできる。
重要なことは、なぜ、差別やヘイトが生まれるのか、というメカニズムを解剖することであり、不買、デモ、撤去ではないことは確実であり、ましてや中指を立てることでもない。

小川榮太郎の文体はサブカルのようなエロ本の埋め草コラムの匂いがする

小川榮太郎より酷い記事や内容なんて出版界にはあるのにね。
小川榮太郎が現れる道筋としては、小林よしのり歴史修正主義コミックから始まっている。それに、小川榮太郎の文体は1990年代のサブカルライターの影響がある。痴漢の触る権利というような暴論は、1990年代サブカルには散見された。当時はデータハウスという版元がグロテスクな雑誌を出したり、小川榮太郎が書いているような痴漢を触る権利そのもののような雑誌もあった。
宝島はビジネス色を強め、船井幸雄のスピリチュアルビジネスがブーム化した。
そういう現象の先に小川榮太郎のようなライターが生まれてきてもなんらおかしくない。
出版界の自業自得だ。
自分は、それとは違う、と言いたがる自称良心を気取る岩上安身のような三流こそ罪深い。なぜ、ライターが自分の飯のタネである出版社の新潮社不買を呼びかけるのか?それこそ、知の劣化ではないか。
新潮社には失望した。だが、立ち直る道はある、と手を差し伸べるくらいの良心がないのが、現在、出版界の病理です。

そもそも、読者は版元で読む人もいるでしょうが、内容と著者や立ち読みやアマゾンレビューやそういった事情で読むから、社内姿勢なんて、関係あるかなあ

新潮社は以前も事件当時少年Aの顔写真をフォーカスにごり押しで掲載した。このときは社内を牛耳っていた斎藤十一が懸念する部下へ「君たち人殺しの顔を見たくないか」と意図的、ごり押しに出版。新潮社は校閲がすごいとか装丁がきれいとかそういう「落ち着いた雰囲気」があるから騙されているが、週刊新潮なんて公安警察ジャーナリズムと呼ばれているくらいですからね。もっともそれらと他の新潮社の単行本は無関係だし、そもそも、読者は版元で読む人もいるでしょうが、内容と著者や立ち読みやアマゾンレビューやそういった事情で読むから、社内姿勢なんて、関係あるかなあ。
新潮社全部撤去だとか新潮社不買と主張する連中は、私が信じていた新潮社がすべて「きれい」であってほしい、という幼稚な主観で動いてないか、そもそも新潮社だって企業だから、いや、企業だからこそ、新潮45のようなカスでも売って経営維持をしなくてはいけないのではないか。
ということは、問題は市場なのだ。

新潮社のその新潮45の記事だけで新潮社を不買、潰したくなる、とまでヒートアップする感情は #ネトウヨ と変わらんですよ

トヨタ自動車内部留保金が異常にあり、潰したくなる、はわからんでもないが、新潮社のその新潮45の記事だけで新潮社を不買、潰したくなる、とまでヒートアップする感情は #ネトウヨ と変わらんですよ。
確かに当事者のLGBTは苦しい感情を抱いたとは私は考えますが、それはLGBTとして抗議する、今後、このような記事を書かないよう求む、ならわかるが、そういう過程がなく、一挙に、しかも岩上休身のような妙な運動ごろつきのジャーナリストが新潮社不買を、しかも、ツイッターで呼びかける、というその安直さ、異様さ、この岩上のような安直さもインターネット時代の「ファシズム」です。

読書の記録 123 自閉症の脳を読み解く テンプル・グランディン 著 2018/09/23

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自閉症スペクトラムの人が職場で気をつけたいこと、として、著者はアドバイスを書いています。

「言い訳をしない」「人と仲良くする」「感情をコントロールする」「マナーに気をつける」「自分自身ではなく仕事を売り込む」「指導者を活用する」

当事者本人でもある動物学博士の著者からそう書かれると、納得できます。

本書で著者は、自閉症スペクトラムは、画像で考える、言語・事実で考える、パターンで考える、と三項目にわけ、それぞれ、向いた仕事を挙げています。

とても参考になります。

 

 

 

読書の記録122 革命論集 アントニオ・グラムシ 著 講談社学術文庫 2018/09/23

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稀代の戦略的革命家・アントニオ・グラムシ

グラムシは、ムッソリーニ台頭初期からムッソリーニの危険性を批判していた。

そのことがいかに鋭いか、なぜなら、ムッソリーニは、当初は社会主義者として注目されていたのだ。だが、グラムシはその知的誠実さにより、ムッソリーニを批判する。

そして、ムッソリーニが政権を握り、投獄されてしまう。

ちなみに、グラムシにとって、現在、日本でいわれているような右も左もないといったスローガンは、批判対象である。グラムシは、本書でしつこく右翼、アナーキストを批判している。アナーキストもまたその戦略性のなさから批判対象である。

日本には、グラムシのような知性が欠けている。

差別は心の問題ではない、「不当な差別」という社会の問題である

差別は「人の痛み」ではない。不当な差別。ということです。 傷ついた、とか、そんなことではない。
この差別定義が日本人はわかっていないから、「かわいそう」だの妙な心問題へすり替えられ、社会の構造的不当差別が見抜けないのだ。そして、せいぜい言えるのは「小川榮太郎杉田水脈」は「言葉の暴力」という幼稚な議論です。
差別が不当な差別という定義であれば、もっとも差別が凝縮しているのは、雇用現場で現れる。
「ゲイのお前は気持ち悪い」までは暴言、「ゲイのお前は気持ち悪いから降格」というのが不当な差別。なぜなら仕事上の能力を公平に見ず、属性だけで判断している。そのことが不当な差別です。ゆえに同一価値労働同一賃金が実現できない日本企業の賃金体系は「不当な差別」です。