注意欠陥多動性症候群者が衝動的かつ不注意に書いてしまうブログ

49歳、注意欠陥多動性症候群及び自閉症スペクトラムと診断され、今までの人生で上手く行っていないことに納得できました

僕の発達障害は、ADHDで、ジョブス的罵倒型です。 僕は正社員だった頃は、アルバイトから店長から客から気にくわない奴は罵倒しまくっていました。 パワハラ正社員でした。 告白します。 その後、うつを発生し、休職、離婚、失業、借金、自己破産、職を転々。 そして、約5年後に契約社員。 疲れてくると、罵倒の癖は治らず、4年後は、懲戒解雇。 その前に、郵便局の対応が悪く、カウンターにあるプレートを下に叩きつけるつもりが、局員にあたり、暴行罪、罰金10万。労役が嫌なので、派遣へ無理やり入り、再就職手当で、払いました。 この10万が痛く、いまは、罵倒はありません。 私は衝動型のADHDです。

新潮45の小川榮太郎の論文が公共性に反しているからといって、なぜ、新潮45以外の新潮社の本まで撤去されなければいけないのか。これこそ「ファシズム」だ

新潮社45以外の新潮社の本がなぜ、撤去されなければいけないのか。全く説得性がないです。100歩譲って、新潮45は回収。僕はそれも認めませんが、というのは、小川榮太郎杉田水脈以外の著者が同誌に書いており、その著者の記事が、とばっちりを受け、抹殺されてしまう。雑誌であるから、その部分は読み飛ばせばよいではないか。そして、新潮社の本を全部、撤去した、と正義の怒りであるかのように抗議する書店が英雄視される。新潮45以外の新潮社の本は小川榮太郎と何も関係ないではないか。村上春樹江国香織新潮文庫だが、全部だからこれらの有名どころの作家も「撤去」されてしまう。僕は、その撤去という言葉を平気で使う書店や文化人の言語センスを疑う。撤去とは、排除ではないか。排除すれば事足りるのか。読者の一人として、新潮社の本、全部、撤去に拍手と喝采を送る精神構造を疑う。それこそファシズムではないか。
小川榮太郎のその論文に問題があれば、というか、公共性に反しているのかもしれないが、それは、小川榮太郎の問題ではないか。であれば、日本共産党がいつも言っている。「言論には言論を」でよいではないか。
そして、正義感気取りで、新潮社の本を全部、撤去したといっている書店は、「怒り」という「感情」を肯定している。それはおかしな話ではないか。
もし、本好きであれば、新潮社に「怒り」ではなく「失望した」ではないか。「失望して涙が流れた」。新潮社には数々の名作を出しています。ですが、なぜ、新潮45に掲載された小川榮太郎ですか、と、真剣に訴えなければならない。
「怒り」は何も解決しない。ましてや、「撤去」というインスタントな「安倍首相」のような行為では、解決は進まない。
それにしても、だ、新潮社の本を全部、撤去した書店を「英雄」のように扱う文化人の「鈍感さ」にはあきれる。
日本は、どこもかしこも「全体主義」だ。

新潮社の本を全部、撤去した書店を賛美する文化人もまた著者なのに、なぜ、その撤去を賛美できるのか。
それこそ、地に足がついていない行為だ。撤去は、自分にも降りかかってくるではないか。まさか、自分は新潮社に書いていないから「関係ない」では、人格を疑う。

たとえ、それが小川榮太郎杉田水脈でも、「言論には言論を」は原則として守らなければならない。
それを破り、新潮社の本を全部、撤去、もしくは不買、は次元の違う行為で対応する。
その次元の違いが、将来、禍根を残すであろう。
撤去を賛美した「馬鹿文化人ども」、お前らにその「悪」は降りかかるであろう。
その「悪」とは、今度は、お前ら文化人が体制から軒並み撤去されるであろう。そうなってしまってからは遅い。

新潮社の本、全部撤去は、安倍政権がやるような政治的排除と同じだからね。 ミイラ取りがミイラになってしまっている。

今こそ、私たちは、小川榮太郎杉田水脈のような論客に対して、また、新潮社の本を不買、撤去という粗雑な書店、文化人から、文化を守らなければいけない、本を守らなければいけない。

新潮社の本、全部撤去とは、大変こわいことだよ。
近くの書店に並んでいた村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドランド」ほか数々の国内、国外の作品が「消えてしまった」ということだから。それこそ「世界の終わり」だ。

私は新潮社に対し、怒りはない、失望だけしか感じていない。 言葉を信じる者、われわれは、新潮社に怒りの制裁をしてはいけない。再起をかけるべく、それこそ「言葉」を使いたい。 果たして、小川榮太郎を掲載した編集者を解任しようが、新潮社の本を全部、本屋から撤去しようが解決はできるだろうか。言葉は回復するだろうか。

大事なことは、言葉のレジリエンスである、そのことがこの新潮45騒動で試されている。