新潮45は斎藤十一スタイルの踏襲かもしれない
そもそも新潮社の雑誌スタイルを作り上げたのは斎藤十一という伝説の編集者が人間のどす黒い欲望を刺激するのが目的で週刊新潮、写真週刊誌フォーカスができた。少年Aの顔写真も、斎藤が、読者は見たいはずだ、とゴリ押しで掲載した。
その斎藤は亡くなったが、スタイルは踏襲されて、新潮45はあるのかもしれない。
たしかに新潮45は問題ありだが、周りが焚き付けて社内でギクシャクさせてしまうのはダメだろう。ツイッターなんかで応酬するのではなく、社内問題ですから会議を開きます、とか、大人の対応を新潮社にしてほしいものだ。
そもそも前から新潮社の雑誌にはわざと毒を撒き、大衆を刺激するスタイルで来ていますよね?今更、杉田水脈程度のアホ文で弁解がましく良心がなんたらかんたらと新潮文芸部が述べるのは胡散臭いし、社内問題であるからツイッターで意見らしきことを述べるのは、ガキ対応です。
さらに言えば、新潮文芸書を支えるコストは、新潮45のような俗悪があるからです。
新潮45の俗悪差別に辟易し、我が文芸の新潮社はどうしたんだ、と泣くナイーブな読者など単なるブランド志向でしかない。
百年の孤独やマヌエル・プイグの裏には俗悪な雑誌を出し続ける新潮社のしたたかさがある。
岩波のように買い切りではないからだ。
ヘイト本や安倍よいしょ本が売れて社内経営をよくするなら、経営者や株主はそれを選びますよね。それが資本主義だし、出版社もまたその資本の市場が強いる力からは逃げられない。
出版業界だけはなぜかナイーブな本好きが、資本の論理を素通りし、無意味な泣きを入れた非難を版元へ繰り返す。