いちいち、なぜ「右翼でも脱原発」といわねばならないのか、僻みなんだろうか
私は一個の人間として平和を希求し、戦争反対の立場である。
現在の日本社会は、この当たり前の一個の人間の表明が「左翼」「リベラル」とレッテルを貼られてしまう狂った状態である。
これは、右翼でも脱原発という言い方がすでに「レッテル」が前提の思考フレームに入っている。そういう意味では古谷だとか中島岳志といった「保守」の正当な定義で終始する論客もその「レッテル」前提のフレームに思考が閉じ込めらている。
原発であろうが戦争であろうが、それら人間にとって危険な機械、状況に一個の人間として反対するのは当然のことであり、その当然をいうことにいちいち「右翼」でも脱原発というような無駄なフレーズを言うこと自体、一種の「陣営主義」「セクショナリズム」に執着しているのだ。
そして「右翼でも脱原発」という奇妙な表現は、社会的知性が存在しない、むしろ、私は被害者だゆえに被害者のトートロジーに閉じ込められている。そもそも、私はあなたが右翼かどうか保守かどうかなど、気にはしていない。勝手に右翼や保守と呼ばれたい人間が、過剰にその「名前」に拘っており、そのような「属地主義」を常にいわねばならないところが「メンタルの弱さ」である。
それは、日本人が異様に「分類分け」にこだわるその思考に端を発している。
とにかく「分類」しないと気が済まない性格が、「右翼でも脱原発」という僻みなのか妬みなのか、社会的知性が感じられないナルシスなワードを右翼でもない日本人まで「共感」してしまっている。
「右翼でも脱原発」というような人間には、誰も君を排除しようとしていないし、あなたが右翼かどうかなど興味ない。
むしろ、君の考えを聞かせてくれたまえ、といってあげて、一個の人間に立ち返らせるのもまた人間の仕事である。