注意欠陥多動性症候群者が衝動的かつ不注意に書いてしまうブログ

49歳、注意欠陥多動性症候群及び自閉症スペクトラムと診断され、今までの人生で上手く行っていないことに納得できました

僕の発達障害は、ADHDで、ジョブス的罵倒型です。 僕は正社員だった頃は、アルバイトから店長から客から気にくわない奴は罵倒しまくっていました。 パワハラ正社員でした。 告白します。 その後、うつを発生し、休職、離婚、失業、借金、自己破産、職を転々。 そして、約5年後に契約社員。 疲れてくると、罵倒の癖は治らず、4年後は、懲戒解雇。 その前に、郵便局の対応が悪く、カウンターにあるプレートを下に叩きつけるつもりが、局員にあたり、暴行罪、罰金10万。労役が嫌なので、派遣へ無理やり入り、再就職手当で、払いました。 この10万が痛く、いまは、罵倒はありません。 私は衝動型のADHDです。

菅野完がいなくても森友問題は発覚しただろうから、菅野完の性犯罪に口を閉ざしてはならない

僕は考えるには、菅野完がいなくても森友問題は発覚しただろうから、その森友問題を強調して、菅野完の性犯罪をタブー化するのは、倫理的に見て間違いである。権力闘争以前に、倫理が重要。
日本会議にしても、菅野完以外の青木理氏が追及している。菅野完がいなければ、森友問題は発覚しなかっただろう、という見方は間違えている。むしろ、菅野氏はスタンドプレーしかしていない。
日本のジャーナリズムが、菅野完がいないと困るほど弱くはない。
菅野完は目立ちたかっだけですよ。
菅野完の性犯罪に口を閉ざす問題は、日本の自称反体制は、連合赤軍のリンチ事件の総括をできていないからだ。菅野完のほかにも現在は、しばき隊のリンチ事件など、自称反体制内部の悪が露見してきた。
この悪を批判できないのは、自称反体制は連合赤軍のリンチを総括していない、もしくは、そのリンチを若さゆえの間違いとみたがるその姿勢にある。
私たちは、闘争以前に一個の人間であるから、その人間として、仮に菅野氏の悪を追及し、反安倍の足並みが悪くなろうが、分断?されようが構わない。なぜなら、私たちは人間として安倍政権の不正に怒っているのであり、であれば、人間として菅野氏の悪にも怒りを持たなければいけない。菅野氏の悪に対して口を閉ざすのは、政治的動物か倫理をなくした闘争ロボットに過ぎない。私たちは人間である。
人間は間違いを起こす、その間違いについてかんがえるのは、人間だからだ。

単純な話ですが、菅野完が犯した性犯罪を黙って見過ごしたら、被害者は泣き続けるだけですよ。

菅野完が犯した性犯罪とは、過失でははない、明らかに故意であり、彼の欲望に任せた身勝手な犯罪である。そのことに口を閉ざすのは法治国家に生きる民主主義を信じるわれわれは許しがたいのである。

 

会社の不正を暴いた正義面するやつが一方ではセクハラしていたらそのセクハラがその正義面によりセクハラが許されるわけがない。
菅野完問題とはこういうことですよ。
 
単純な話です。菅野問題は。 アメリカから国外逃亡 日本では嫌がる女性を押し倒した。 これら事実を「否認」するのは法を踏みにじる反民主的行為である。
我々は文明人であるから、菅野へ法の裁きを要求することが「民主主義」である。
対照的に、党員の不正に客観的、公正に対処するのが日本共産党の志位委員長である。志位委員長は不正を行った党員へは制裁を加える。それが「民主主義の一側面」である。
 
日野皓正が中学生をびんたしたことを無罪放免した保坂展人と、性犯罪者・菅野完を庇う反安倍はそっくりで「情実」という全く反文明的行為を平然と法治国家で行う。
 
日本人は、法ではなく、敵ー味方理論、いや、ウチとソトで考える。
菅野完の性犯罪を弾劾できないのは「ウチ」に染まった典型的な「単一社会」に染まっている証拠だ。
それは法が及ばない未開であり、反文明である。
 
手塚治虫ブラックジャックの短編にはこういうのがある。
学校の不正を暴く教師がいてその教師は生徒からも人気があった。だが、その教師はあるとき解雇された。それはその教師は学校の金庫からカネを万引きしていたからである。
この短編と菅野完問題は似ていないだろうか。