菅野完がいなくても森友問題は発覚しただろうから、菅野完の性犯罪に口を閉ざしてはならない
僕は考えるには、菅野完がいなくても森友問題は発覚しただろうから、その森友問題を強調して、菅野完の性犯罪をタブー化するのは、倫理的に見て間違いである。権力闘争以前に、倫理が重要。
日本会議にしても、菅野完以外の青木理氏が追及している。菅野完がいなければ、森友問題は発覚しなかっただろう、という見方は間違えている。むしろ、菅野氏はスタンドプレーしかしていない。
日本のジャーナリズムが、菅野完がいないと困るほど弱くはない。
菅野完は目立ちたかっだけですよ。
菅野完の性犯罪に口を閉ざす問題は、日本の自称反体制は、連合赤軍のリンチ事件の総括をできていないからだ。菅野完のほかにも現在は、しばき隊のリンチ事件など、自称反体制内部の悪が露見してきた。
この悪を批判できないのは、自称反体制は連合赤軍のリンチを総括していない、もしくは、そのリンチを若さゆえの間違いとみたがるその姿勢にある。
私たちは、闘争以前に一個の人間であるから、その人間として、仮に菅野氏の悪を追及し、反安倍の足並みが悪くなろうが、分断?されようが構わない。なぜなら、私たちは人間として安倍政権の不正に怒っているのであり、であれば、人間として菅野氏の悪にも怒りを持たなければいけない。菅野氏の悪に対して口を閉ざすのは、政治的動物か倫理をなくした闘争ロボットに過ぎない。私たちは人間である。
人間は間違いを起こす、その間違いについてかんがえるのは、人間だからだ。
単純な話ですが、菅野完が犯した性犯罪を黙って見過ごしたら、被害者は泣き続けるだけですよ。
菅野完が犯した性犯罪とは、過失でははない、明らかに故意であり、彼の欲望に任せた身勝手な犯罪である。そのことに口を閉ざすのは法治国家に生きる民主主義を信じるわれわれは許しがたいのである。
我々は文明人であるから、菅野へ法の裁きを要求することが「民主主義」である。
対照的に、党員の不正に客観的、公正に対処するのが日本共産党の志位委員長である。志位委員長は不正を行った党員へは制裁を加える。それが「民主主義の一側面」である。
菅野完の性犯罪を弾劾できないのは「ウチ」に染まった典型的な「単一社会」に染まっている証拠だ。
それは法が及ばない未開であり、反文明である。