日本という国そのものにソーシャルスキルが存在していない
中央官庁である財務省の事務次官が記者へおっぱい揉ませろよと性的暴言を述べる日本という国そのものにソーシャルスキルが必要である。
状況がそうなのに、発達障害者はソーシャルスキルが足りないからそのスキルさえ学べば、社会で生きていけるかのようなアナウンスが多い。それは間違いである。
まず、私たちが見なければいけないことは、日本という国そのものが、ソーシャルスキルを訓練が必要な状態である。国と社会が分離しているような西欧型であれば、市民社会はソーシャルスキルが不足していることは日本ほどではないので、発達障害者がソーシャルスキルを学べば、社会性があるな、と受け入れられやすいが、日本のように国と市民社会が合体している「特殊な空間」では、もはや、社会にもソーシャルスキルが不足していることはわかるのではないか。ソーシャルスキルとは、社会にソーシャルスキルが存在していなければ、そのソーシャルスキルの意味が伝わらないのだ。わかりやすく言えば社会であいさつをすることのソーシャルな意味が広く認知されていなければ、いくら発達障害者がソーシャルスキルであるあいさつをしたところで、発達障害者が社会から暖かく受け入れられる、と見る方がソーシャルスキルが欠落している。
ソーシャルスキルの前に思考である。
まず、考えろ、だ。
そして、日本という「特殊な空間」で見落とされているのが「ライフスキル」である。
障害者を面接するときでさえ、障害者から申し入れをされた企業は、合理的配慮をしなければいけない、というような知識を得ること、その知識は障害者差別解消法の一部であること、障害者差別解消法は日本政府が批准した障害者権利条約を誠実に遵守するためにできた国内整備のための法律であることを理解して使えるそのことが「ライフスキル」である。
私たちは国と社会で生きていくには、当然、経済と制度を活用して生きていかねばならない。その活用は、「ライフスキル」を学んでいくことで得られていく。
あいさつさえすれば、発達障害者が経済的かつ社会的に幸福な人生が実現できる、と見る方が、全か無かの認知の歪みである。われわれは、その歪みから解放されなければいけない。