自分探しとしての実弾右翼の桂田という負け犬
朝鮮総連へ実弾を打ち込んだ桂田のようなタイプは、自分探しを危険な右翼スタイルでしているにすぎない。そんな奴には、右翼スタイル以外の桂田が気づいていない桂田の良さを親族や親や友人が指摘し、桂田の右翼へ向かう動機を削ぐのが良い。
これは、実は、障害者施設を襲撃した植松にも言えている。
桂田にしても、植松にしても、周辺プロレタリアの疎外を生きている。
その疎外が反転すると、ナチスへ至る。
その疎外を食い止めるのは、個々の「意識」とやらではない。
個人に分断された、プロレタリアや周辺プロレタリアがいかに人間的な連帯を回復するか、であり、それは、まさに階級論の復活しかない。
多様性なる遊戯をしているあいだは、桂田のような存在の不安を犬の遠吠えのような自信過剰で自らを糊塗し、出来合いの思想を着飾りながら、周辺社会ではなく、自分こそが社会の中心だという、ヒトラーのような疎外ルサンチマンを抱えながら、暴力の顕現による、我が力の誇示をし続ける者が増えるだろう。
その無様な国が、大日本帝国である。