東浩紀の積極的棄権を私は好意的に解釈すると・・・・こうではないか
はじめましてADHDとアスペルガーの傾向がある、と診断されたヒデヒデです 今日は社会について論じます。
また前回に引き続き東浩紀についてです。
前回は
今回は以下です。
東浩紀の積極的棄権を私は好意的に解釈すると、それは、権力ゲームに陥った選挙では、投票が、その投票者の意見の反映にならない、ということに対するアイロニカルな抗議である。
東が述べたいことは、その投票は、あなたの意志ではないなら、棄権と同等の意味しかないではないか、という問いかけであるが、彼のその主張が胡散臭く見えてしまうのは、東は猪瀬直樹が、東京都知事選挙に立候補したとき、彼は、積極的に猪瀬直樹への投票をマイクを握り締めながら、訴えていたのである。
その一貫性のなさが、一貫しているのが、東浩紀である。
彼は、棄権を自分が選挙できる年齢に達してから、隠れ家的な、まるで、ソローのような生活の、自由を守るために、独立を守るために、国家の副産物である選挙への否定のための棄権ではなく、たまたま、今回の安倍解散のデタラメさに対して、破れかぶれの無駄な抵抗をしているにすぎない。
もし、安倍解散により生まれた選挙に抗議したいのであれば、順当に考えれば、それは、選挙を通じて安倍政権を倒そう、という主張になる。
だが、小利口な東は、自公政権が圧勝することは、見えていたので、そのような、呼びかけは、自分の読みが外れた、と見られるのを恐れるプチブルの、大衆社会には有象無象存在する、知識人の一人でしかなく、読みが外れることは、不安なのだ。
なんのことはない。そのようなタイプの知識人など古代ギリシャから存在している。ソフィストである。
東浩紀は、ソクラテスから、質問されてしまうようなソフィストでしかない。
ソクラテス「棄権がなぜ民主主義なのか」
と敢然と、古代ギリシャの哲学者は問うだろう。
その問いをされた東のその姿にこそ、民主主義の崩壊以降の知識人が見える。
と私は考えました。