維新と反維新という何ら存在しない「記号」
維新と反維新という「記号」で見るから「実体」からかけ離れた議論をしてしまう。
ただ単に、維新と自民党との選挙であり、その自民党へ共産党が応援するという構図である。これは、前回も自民党票が維新へ流れたという結果があるのに、また同じことを繰り返している。自民党票が今回も維新へ流れた。
前回の選挙結果でわかるように自民党票が維新へ行くことは明白なのになぜ自民党は維新に対抗するのか。中央の政治が維新は明らかに自民の補完勢力であるのに、地方の大阪ではそうではない、と言えるのか。だいたい、松井一郎はもともと自民党ではないか。
元・自民党の松井一郎が率いる維新という見方をすれば、自民党と維新の争いなどない。もし、あるとすれば、自民党が大阪での多数議席を得たいだけにすぎず、それ「反維新」と呼ぶのは滑稽ではないか。ただ単に、共産党が独自候補をたてられずに、自民党に乗っかっただけではないか。
自民党に乗っかった共産党という姿が橋下徹から見たら10年前の大阪に戻すなということなのだ。
その10年前の大阪に大阪市民が飽きているのかもしれないではないか。
いずれにしろ、維新と反維新という構図は存在しない。それはマスコミや日本共産党がそういいたいだけの虚構である。
維新と反維新という争いは元自民党の松井一郎率いる維新と自民党の派閥争いのようなものにすぎず、「反維新」とされる自民党が大阪で多数派を占めようが、維新とどう違うのか。大阪市民はわかりきっているのだ。
大阪市民は維新と自民の出来レースにうんざりしているだけだ。
今後は、維新と公明党とが接近するだろうから「維新と反維新」という「そうであってほしい構図」は虚構だったとわかりますよ。
維新と反維新だとか表現しているが、実体は、元自民党の松井一郎と自民党大阪の争いでしかなく、維新へ対立候補を立てることができない無能な日本共産党が自己正当化にすぎない合理化する維新の脅威という話をしているだけに過ぎず共産党シンパがその話を信じて小西へ投じただけだ。
自覚して日本人は天皇へ「陛下」をつけて呼ばないことだ、それが日本人の自己成長を促す
天皇が人間宣言しようが、人間の頂点にあれば事態は変わらない。名称変更や言葉の言い換えで有耶無耶にする日本的風景の一つが天皇の「人間宣言」である。
実際、その証拠にいまだに日本人は無邪気に「天皇陛下」と呼ぶではないか。
そのことが有耶無耶だ。
自覚して日本人は天皇へ「陛下」をつけて呼ばないことだ。子供は、親が「天皇陛下」と呼ぶから「天皇陛下」とその言葉の意味がわからず反復してしまう。だが、その子供も成長したら「陛下」の意味を理解できるので「陛下」と呼ばないことで、主体克服を可能にする。自己成長できるのだ。
あなたが仮に戦争反対といおうが、いつまでも「天皇陛下」と無邪気に呼ぶあいだはあなたの戦争反対は「奴隷の戦争反対」でしかない。近代的自我を所有したいのであれば、「陛下」とつけて呼ぶことを捨ててこそ初めて近代的自我、そして「平等」の実質的意味を獲得できるのだ。
日本人がいつまでも天皇陛下と無邪気に呼ぶあいだは、日本人が近代的自我からいつまでも遠い未開人のままであろう。
自己確立とは親離れのことである。
それは子にとって恐怖であり冒険であり新たな人生の獲得である。
同じことが日本人に言えるのだ。
かつて、日本人は天皇の赤子だったのだ。戦後になってその制度は廃止されたが、だが、日本人の奥底に眠ったその赤子意識が残ってしまい、今でも天皇に対し「天皇陛下」と敬称をつけ、親=王を意識内で確立させてしまう。その意識内の関係を捨て払うには「親離れ」が必要なのだ。
日本人は自己成長のために「天皇」とその役割名だけで呼べ。
天皇もまた母性的権力であり、また日本人もその母性的権力へ依存することで成立する共依存の支配関係である。 共依存とは「あなたのことを心配して意地悪するのよ」という言葉がその典型例である。
「天皇陛下」と呼ぶあいだはあなたは母性からの無償の愛を期待し続ける子供でしかない。だが、天皇制とは「帝国主義」でしかないのだ。
天皇を頂点とした幼稚な大日本帝国は空威張りでアジア諸国を支配していた。そのメッキが今、はがれようとする現在、大日本帝国の末裔である安倍政権は焦りの形相で韓国を非難する。
そのシンボルが働き方改革の旗振り役の厚労省課長韓国での酒を飲み酔った上での暴行だ。
日本は劣化した「帝国主義国家」としてその役割を終えるのだろう。